人はなぜ死ぬのかという問いは簡単には答えの出ない哲学的な問題ですが、なぜ生物学的身体の平均的耐用年数が120年を越えないのかという問いには、ある程度科学的根拠を見出す事が出来ます。一般的な傾向として、哺乳類は大型になるほど寿命が伸びる傾向があり、また心拍数は下がるようですが、身体の大きさや全細胞数に関係なく一生の間に心臓が鼓動する回数は15億回付近と一定しているようです。心拍数は細胞の代謝と関係があるので、個々の細胞の物質代謝(化学プラントで言うところの生産量)が一定数を上回ると細胞が耐用年数を迎えて全身の機能低下が一挙に訪れるとも考えられます。ちなみに人間の一生の心拍数は30億回程度です。医療や栄養価の高い食事のおかげで細胞や臓器の保守性が高く、野生動物よりも平均的に細胞を2倍長く使えているのかも知れません。あるいは癌や認知症など野生の環境であれば自力での生存が困難な状態であったとしても、社会として生を繋げる仕組みがあるおかげで、人類全体の平均寿命が他の哺乳類の2倍あると考える事も出来ます。
生物は種ごとに決まった遺伝情報を持ち、種を構成する個体間の生殖活動によって主に維持されてきました。そして、地球上のすべての生物は、種の遺伝情報を変化させながら、これまで長い進化の歴史を歩み続けてきたのです。このような生物の特性を考えると、個体の寿命を性成熟年齢と関係づけられるのではないか、と捉えることも出来ます。実際、早く性成熟する動物の個体寿命は短い傾向があり、人間のように性成熟が比較的遅い動物では個体寿命が長い傾向があります。生物の寿命を考える上でもう一つ重要な観点は、動物の脳の大きさと個体寿命との関係です。こちらも古くから研究されていて、確かに脳の容積比と個体寿命には高い相関関係が認められるようです。個体を操る脳という臓器が、個体内部のホメオスタシス(恒常性維持)などのバランス維持に深くかかわっており、それが個体寿命にも反映するだろうという考え方はあまり違和感を感じさせません。いずれせよ、ここではっきりとしていることは生物の寿命は種によってはっきりとした特定の限界があるということです。
さて、個体は当然、数多くの細胞から成り立っています。人間の場合、50兆とも60兆個とも言われる体細胞から主に構成されています(最近の研究によれば37兆個という報告があります)。従って、これらの個体を構成する細胞寿命が、個体の寿命に影響するだろうと考えることはごく自然な捉え方です。この細胞寿命に最も深く関係すると考えられているのが、DNAの複製限界です。1つの細胞が2つに分裂するためには、まず核にあるDNAが正確に複製されたあと、2つの娘細胞に正確に配分されなければなりません。もし細胞分裂に不可欠なDNAの複製回数にある一定の限界があるとすれば、細胞寿命の決定的な要因となってしまうでしょう。これはテロメア限界説と呼ばれ、細胞の中に核を持つ真核生物の場合、DNAを収めている染色体末端領域にある繰り返し配列が、複製のたびごとに短くなっていき、ある一定の限界を超えると細胞分裂が停止してしまうというものです。この細胞の分裂可能回数と個体寿命との関係を見ると、こちらもきれいな相関性を認めることができます。ただし、染色体のない細菌のような原核生物には成り立たないほか(条件さえ許せば、無限に増殖が可能です)、真核生物であっても生殖細胞系列は除外されます。何より、前述の脳内の神経ネットワークを構成するニューロンは、ほとんどすべて分裂を終了した最終分化細胞であり、テロメア限界説では説明できません。特に、脳のニューロンの老化現象を考えるには、細胞や臓器で起こる代謝活動にも目を向けなくてはならなくなります。
では細胞の耐用年数が来ると何が起こるのでしょう。使い込まれた厨房の壁や換気扇に油汚れがべっとりと付いているように、細胞の中にも長年の代謝活動に伴う副産物が蓄積されていきます。細胞は大量のタンパク質を作る工場のような働きをしていますが、一定の割合で不良品が発生しその不良品のタンパク質が分解出来ないまま蓄積していくと繊維質の塊が細胞の中に溜まっていく事になります。アルツハイマー病などはまさにニューロンの中にアミロイドという繊維質が溜まっていき、最終的に細胞死をもたらして脳の中でニューロンがどんどん減っていってしまう病気です。同じような事は他の臓器でも筋肉でも起きます。肝臓や腎臓などの臓器の場合は毒素が処理出来ずに体内にどんどん溜まっていき、最終的にはその毒素によって神経や脳が侵されるので心臓や肺に命令が出せなくなり、心臓が停止して死亡します。筋肉の場合も心筋が正常な鼓動を打てなくなって最終的には心停止します。
心停止すると身体の隅々まで酸素が行き渡らなくなります。細胞膜上には様々な種類のポンプが付いていて、それらのポンプがナトリウムやカリウム、塩素と言ったイオンをくみ出したり、取り入れたりして細胞膜の内側と外側で浸透圧差を保っています。このポンプを駆動させる燃料になっているのがアデノシン三リン酸(ATP)という高いエネルギーが詰まった分子です。ATPは細胞の中で生産されますが、その工程で糖と酸素が必要になるのです。従って酸素が切れると細胞内でATPが作れなくなり、ポンプを駆動する燃料が枯渇します。すると大量のナトリウムイオンと塩素イオンが水分子を伴って細胞内部に流入し細胞は急激に膨れ上がっていきます。また細胞内部には不必要になったタンパク質を適度に分解する酵素が存在していますが、ATPが切れているため、これらの酵素の働きを制御するシステムもダウンしており、細胞内部のありとあらゆるタンパク質が分解されます。こうして細胞内部の圧力が高まっていき最終的に細胞は破裂します。これがネクローシスと呼ばれる細胞死の過程です。
破裂して外に出た細胞の内容物の一部は、危険信号を伝える分子として他の細胞の受容体(分子センサ)に結合し、”近くで細胞が死んだ”という情報を伝えます。この危険信号を受け取った細胞は炎症反応を引き起こし、サイトカインという更に強力な炎症反応を引き起こす分子を合成して撒き散らします。サイトカインが一定濃度を越えると、この分子を受信した細胞はプログラムされた自己死(アポトーシス)に進みます。アポトーシスの場合は細胞はどんどん小さくなっていき、最終的に白血球などの免疫細胞に食べられてしまいます。炎症反応は身体に傷が付いたり、細菌やウィルスに感染した時にも生じますが、感染や負傷した細胞を積極的に死滅させる事で、他の正常な細胞に感染を飛び火させない役割があります。細胞内のタンパク質を自食作用によって分解していくことは、オートファジーとして昨今衆目を集めているところです。心臓と呼吸が止まり、酸素が供給されなくなった状況でも同じような受動的な細胞死(ネクローシス)と、それによって誘導された自発的な細胞死(アポトーシス)が同時に進行していき、最終的には身体の中の全ての細胞が溶けて分解されていきます。
このように生物学的な死は、少なくとも全ての哺乳類に起こる不可逆的な反応ですが、全ての生化学反応(細胞の活動)あるいは化学反応は温度を下げる事でその進行速度を100万分の1(ほとんど停止状態)までに遅らせる事が可能です。心停止後にすぐさま体温を下げる事が出来れば、ネクローシスの反応は遅くなり、炎症反応やアポトーシスのような生化学反応は0℃で完全に停止します。しかしナトリウムイオンや塩素イオンを伴って細胞内部に水が浸入する事は止められないので、より温度を低くして体内の液体を全て固体にし、イオンの動きを止める必要があります。原理的には液体窒素の ‐196℃まで冷やせば生物の時計を心停止した直後の状態でほぼ完全に止める事が出来き、何百年と長期保存する事が可能です。しかし実際に成功しているのは精子や卵子といった生殖細胞や歯根などの組織、あるいは腎臓などの小さな臓器のみです。これは細胞の中に残っている水分が氷になった時に体積膨張し、細胞を内側から破壊するためで、大きな臓器をそのまま凍らせて保存する事は出来ません。一般に、氷の結晶は結晶の核となる分子に次々と水分子がくっついていく事で成長していきます。また氷が解ける温度に近い-1℃から-5℃付近では結晶の核はまばらで、一つ一つの氷の結晶が大きく成長する傾向があります。よって組織や細胞の内部で氷の結晶を大きく成長させないためには-1℃から-5℃以下まで短時間で急速に冷却する必要があります。実際のところ水は0℃に達しても直ちに凍り始めるわけではなく、過冷却状態となって液体のまま存在します。また様々な大きさの分子が溶けてスープのようになっている細胞液や組織液では特有の凝固点降下(0℃以下でも水が凍らない現象)が認められます。さらに凍結防止剤の役割を果たす糖質や有機溶媒が添加されれば、この傾向はますます顕著になります。
そこで長期細胞保存や臓器保存では、トレハロースなどの糖質やDMSOなどの有機溶媒系の凍結防止剤を使い、細胞内部の水を抜いてから温度を下げる処理をし、液体窒素の中で保存します。凍結防止剤は前述のように著しい凝固点降下作用をもたらす物質で0℃以下でも液体の状態を保っていられるので、細胞の活動を停止させたまま体内を循環させる事が出来ます。これは冬の凍てつく寒さの中でも循環する、車のラジエータの中の冷却液のような役割を果たします。また液体窒素の温度まで下げていくと凍結防止剤も固体になりますが、その冷却の過程で液体の状態を保ったまま、一部の水は氷となり、凍結防止剤の濃度がどんどん上がって行く場合には、通常は溶液が結晶化するよりも低い温度まで冷却されることがあります。溶液がここまで冷却されると、液体の時の形を保ったまま固体になる事が出来ます。この現象をガラス化と言い生物試料の低温保存の多くはガラス化法を採用しています。
脳組織もガラス化法によって長期保存出来る事が実験的に証明されています。神経組織を切片(スライス)にした状態で、凍結防止剤を使って液体窒素の中で保存し、再び解凍して凍結防止剤を除去したところ、通常のニューロンと変わらない神経活動が観察出来たという結果が報告されています。しかし脳全体の保存となると同じようには上手く保存出来ません。その原因は毛細血管の隅々まで凍結防止剤が行き渡らずに、冷却の途中で細胞が破壊される事、また凍結防止剤自身が長時間細胞に曝される事によって細胞にとって毒性が出る事も分かっています。凍結防止剤は基本的には有機溶剤のようなものなので細胞膜を溶かします。よってガラス化法では凍結防止剤が細胞膜を溶かす前に、出来る限り急速に温度を下げる必要がありますが、血管の隅々まで凍結防止剤を行き渡らせるためには、ある程度時間をかけて血管内部を循環させる必要があります。細胞内部での氷の形成を抑えるか、凍結防止剤の細胞への毒性を抑えるかという二律背反の関係があり、脳のような複雑で比較的体積の大きい臓器では長期低温保存が成功していないという実情があります。
一方で生物学の分野では組織の構造を電子顕微鏡で観察するのに、化学固定という方法が一般的に使われます。化学固定とはホルマリン漬けに代表されるようなタンパク質を固くする有機溶媒を使った生物試料の保存方法です。化学固定法のメリットは細胞内部の微細構造まで保存出来る事ですが、ホルマリン漬けという言葉からも分かるように一度化学固定してしまうと細胞の蘇生は不可能になります(現在存在するどんな技術を使っても)。また数百年と言った単位での長期保存は出来ません。最近になって実用化されたアルデヒド安定化極低温保存法(Aldehyde Stabilized Cryopreservation:ASC)は、化学固定法とガラス化法の2つのメリットを組み合わせた手法です。化学固定法はシナプスなどの細胞の微細な構造を保存出来ますが、長期保存には向きません。一方のガラス化法は数百年という単位で長期保存出来ますが、細胞の微細構造までは保存出来ません。ASCの開発によってシナプスレベルの微細構造を脳全体で長期保存する事が出来るようになりました。ASCではまずグルタルアルデヒドという強力な固定液でタンパク質を硬い状態に(変性)させます。その後DMSOやエチレングリコールなどの凍結防止剤を4時間以上かけてゆっくり脳内に循環させます。その後徐々に温度を下げていき最終的に液体窒素の中で長期保管します。ASCによる脳の保存はウサギの脳で成功しておりヒト脳にも理論的には適用可能ですが、まだ臨床現場で実施出来る水準にはありません。現在米国のNectomeというベンチャー企業がヒト用のプロトコルの開発を精力的に行っています(2016年7月)。
ASCを用いた脳の保存は現在のところ、生物学的な蘇生を目的とした手法ではありません(2016年7月)。脳の中の微細構造を保存する事により、神経配線という情報そのものを保存し、コンピュータ上で意識を再構成するという目的のために利用可能な手法です。また技術解説の概要でも述べているように、ACSは死亡後に脳の情報を読み出すPost Mortalな方法です。JTLAではASCのような脳保存技術を、脳情報が生きたままの状態で読み出せるin vivoのブレイン・マシン・インターフェイスが実現する2025年頃までの“つなぎ”の技術と位置付けています。In vivoのブレイン・マシン・インターフェイスが利用出来る時期が来れば、それ以降クライオニクス技術は必要なくなると認識しています。ご自身の身体を残したまま、生物学的な蘇生を希望される場合は、従来のガラス化法による保存処置を選択される事をお勧めします。しかし従来の凍結防止剤を用いたガラス化法で将来の蘇生が可能になるという明確な科学的根拠は、現在のところ存在しておらず、蘇生のステップは未来の医用工学の進歩に託されているところです。クライオニクスに関する科学技術を含む多方面からの解説書としては、当協会とも繋がりのあるDe・DNAプロジェクト(http://de-dna.net/)のホームページ及び清永怜信著「クライオニクス論」―科学的に死を克服する方法―をお勧めします(下記のバナーをクリック下さい)。