人工知能の節でも述べているように脳の中のプログラムはワイヤードロジックによって構成されています。通常のパソコンのようにHDDやSSDのメモリ領域に記憶や人格が書き込まれている訳ではなく、ニューロンという最小の処理ブロックを繋ぎ合わせてハードウェア的にアルゴリズムを実装しています。ですので脳の中のプログラム(OSやアプリケーション)を読み出すためには、神経活動を記録する(ブレイン・マシン・インターフェイス)かあるいは脳の中の配線図を読み出す(コネクトミクス)しか方法がありません。ニューロンの繋ぎ方(ネットワークの配線図)が分かれば一部の脳機能が実現出来るという予測は、近年のディープラーニングの成果によって、その実験的根拠が明瞭に示されようとしています。ディープニューラルネットワーク(DNN)を用いた画像認識の識別率は人間を既に凌駕しており(2015年)、また多層ネットワークの各階層では、サルやネコのような高等哺乳類の視覚野で観察されるものとほとんど同じような画像の特徴を検出している事が分かってきました(ヒトの場合は脳に電極を刺す訳にはいかないのでデータが存在ません)。即ちDNNの中の神経配線とヒトを含めた高等哺乳類の視覚野の中の神経配線は似たような構造と機能を有している可能性が高く示唆されています。これはネットワークの繋ぎ方の情報さえあれば、その脳機能をコピー出来る事を示しています。
ニューロンの接続の仕方に脳機能が埋め込まれているという発想の下、全神経配線をスキャンしようという野心的な試みがコネクトミクスです。脳の中の神経結合(connection)の全て(-ome)をコネクトーム(connectome)と呼び、コネクトームを研究する学問をコネクトミクスと言います。神経結合はニューロン同士がシナプスを介して形成しています。ニューロンの主要な構造としては細胞の核が入っている細胞体、細胞体から木の幹のように伸張し枝分かれしている樹状突起、同じく細胞体から糸のように伸張している軸索があります。一般的には樹状突起はニューロンへの入力、軸索はニューロンからの出力であると考えられています。軸索や樹状突起からはさらに細かい枝分かれ構造があり、その枝の先端にシナプスが形成されています。その大きさは1マイクロメートル(千分の1mm)前後です。よってこの1マイクロメートルの構造を輪切りにして顕微鏡で観察出来れば、2次元の画像を積層させて3次元の立体構造を再構成する事で理論的には全ての神経配線の情報が取得出来る事になります。
現在の大きな問題は撮像にかかる時間です。一般的な走査型電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope:SEM)を使うと30ナノメートル(シナプスの30分の1の厚さ)の厚み方向で 80×80マイクロメートル四方を30秒でスキャンする事が出来ます(2015年)。大脳皮質の大きさを2200平方センチメートル、平均的な厚さを3.5mmとすると現在の一般的なSEMのスキャンの速度で皮質全体を撮像するには3800万年を要する計算になります。しかし最新型のSEMだと91本の電子線ビームで並行にスキャンする事で一般的なSEMの200倍のスキャン速度を出す事が出来ます。仮にスキャン速度が毎年2倍向上したとすると脳全体のスキャンには25年くらい、毎年4倍向上すると10年くらいを要する計算です。
重要な事は、今アルデヒド安定化法でシナプスの微細構造を残したまま脳を保存出来れば、早ければ10年後、遅くとも30年後くらいには意識や人格をコンピュータにアップロードする事が出来るかもしれないという事実です。勿論ブレイン・マシン・インターフェイスが実現する可能性がある2025年頃まで待てる人であれば、わざわざ脳を保存する必要などありません。しかし今後10年で日本国内だけでも1000万人が死を迎えます。その中のほんの一部であっても老いや死を克服した未来を生きてみたいという人達はいるはずです。我々の使命はそうした方々に、これまで人類が経験した事のない全く新しい世界を生きる機会を提供する事にあると考えています。