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意識のデジタル化について
- 脳の中から情報を取り出してコンピュータの中で意識を再生出来たとしても、脳の中の自分は死んでしまっていて、コンピュータの中の意識は自分のコピーなのでコピーだけが生き残っていても意味がないのではないか?
- 脳の中の情報とコンピュータに移植された情報は数学的には等価なものです。
またデータあるいは情報という存在にはその定義上オリジナルやコピーと言った概念は存在しません。ですので純粋な科学的・数学的見地からは、脳の中の情報がオリジナルかコピーかと議論する事自体がナンセンスです。卑近な例ですが、例えば今ご自宅の押入れの中に一千万円の現金が貯蓄してあるとして、それを全て銀行に預けるとします。あなたの口座残高には一千万円という数字が現れる事になりますが、それは押入れの中にあった千枚の一万円札と同じリアリティを持っていると思います。このように紙の現金で存在しようが、口座の情報として存在しようが、ただの数字にオリジナルもコピーもなくどちらもリアリティを持った存在なのです。
数学的にはオリジナルもコピーもないという結論で落ち着いてしまうのですが、我々には何か本能的に納得出来ない、腑に落ちない感覚が残ります。神経科学者で脳保存賞(Brain Preservation Prize)の創立者であるハワード・ヒューズ医療研究所のKen Hayworthはこの問題に対して次のような興味深い仮説を提唱しています。即ち人間の本能を司る脳部位には自己という幻想を生み出す神経回路が存在するというものです。我々の脳の中には生存に必要な摂食行動・逃避行動・繁殖行動などの様々なプログラムが先天的にプリインストールされていますが、その中の一部のプログラム(神経回路)は自己の身体や心理的特徴(感情や思考の内部モデル)に境界線を引き、自己とそれ以外のものを区画する役割を果たしているというものです。
人型のロボットを考えれば分かり易いのですが、ロボットを制御しているコンピュータ(CPU)には足の裏や手に付いている圧力センサ、関節周りにある加速度センサ、カメラやマイクなどのセンサ類からの入力が常に入って来ます。歩行を行うためには、これらのセンサ類からの情報と自身の重心や四肢の重量、形状に関する内部モデルを使って最適な歩行パターンを生み出すようなアクチュエータの出力を生成する必要があります。このような歩行と言う単純に見えるタスクでさえも、自身の身体の形状や重さに関する情報を元に身体に関する内部モデルを生成する必要があります。Ken Hayworthの示唆する自己と言う幻想を生み出す神経回路はこうした内部モデルを生成するプログラムに相当すると考える事も出来ます。もしロボットがネットワークを介して他のロボットの加速度センサや圧力センサの情報を取得出来たら、物に触れていないのに触れた感覚や、存在しない手や足が動いているという感覚を持つでしょう。そのような経験によって自己の境界線も修正されるのです。これは知識や経験にも当てはまり、全ての経験をクラウド上で共有化できるロボット達ならば、どれが自分の身体で体験した経験で、どれが自分で身に付けた知識なのかも区別出来なくなると思います。知識や経験と言う自己の糧となる情報でさえも、境界線が曖昧になっていってしまうのです。このように我々が自分と考えているものは、身体の境界線、コミュニケーションや経験の境界線によって作られた自己像であり、全ての脳情報を他者と共有した時には自己イメージも曖昧になっていくものと予想されます。
- そもそも人間の意識をコンピュータに移植する事など可能なのですか?
- 「意識の科学」という学問分野が存在するくらいなので、まだ意識とは何かという命題を科学は明らかに出来ていません。
ですのでコンピュータに意識を移植すると言った場合、そもそもその意識とは何かが科学的に厳密に定義されていないのです。しかし脳の中のアルゴリズムやデータ構造と言ったものはより科学的に厳密に定義し抽出する事が可能です。階層時間記憶モデルやコネクトームなどがその一例です。脳の計算原理が明らかになった時、その理論は我々人間がどのように世界を捉え、ものを考え、行動を取っているのかを詳らかにします。そして第三者から見た時にそれが本物の人間なのかロボットなのか判断が付かなくなるレベルまでそうした技術は洗練されていくでしょう。その時に人間はそのロボットにあたかも意識が宿っているかのように感じる事はあるのではないでしょうか。
- ニューロンの電気信号やシナプス結合の形態情報だけを元に人格や意識の再構成が可能と言う根拠は何ですか?
- この疑問は現在のところ科学的には未解決問題です。
しかし幾つかの実験結果からニューロンの電気的活動やシナプスの形態情報だけで人格を再構成するのに十分精細な脳情報が取得出来るという様々な状況証拠が集まりつつあります(2016年) 。その一例は近年のディープラーニングなどの機械学習に見られます。現在脳を模倣した視覚処理システムの画像認識性能は人間の視覚の能力を超えるレベルになっていますが、その機能を実現するのに使われているプログラミングのパラメータは単純なニューロンの特性とシナプスの結合強度だけです。ニューロンのような複雑な生理学的実体のごく単純な特徴を利用するだけでも人間のパフォーマンスを超える人工知能が作れてしまうという事は、分子レベルで起こっている生理現象の全てをシミュレートする必要がないという一つの強力な根拠になります。さらに脳の高次機能そのものに取って重要な生理現象と、脳という臓器を維持するために必要な機能との区別が明確になっていないため、どこまで細かい情報が必要なのかという事に関して、神経科学者と人工知能研究者との間で見解が一致しない事があります。例えば脳波は計算に必須な機能なのか、あるいは雑音の多い生物脳の環境だからこそ、信号を伝えるために必要なのかといった議論です。また人格や意識が十分に保存されているかどうかを保証するためのベンチマークテストのようなものもまだ存在していないので、この問題に明確な決着が付くのはまだ時間がかかりそうです。
- 例え脳情報が生きたまま取得出来てコンピュータ上で意識が再構成できたとしても、生身の肉体を持った自己、主観的な自分が死ぬ運命にある事に変わりはないのではないですか?
- その通りです。
脳情報がコピー出来たとしても何もしなければ生身の肉体は死んでしまいます。ですので全脳エミュレーションのような手法であなた自身が不死を経験する事はないかも知れません。生物学的な肉体の死を回避するためには主に3つの選択肢があると私達は考えています。1つは細胞の寿命を延ばして肉体を維持する方法です。ウィルス治療や再生医療、臓器移植などがこれに当たります。2つ目は法律によって禁止されている方法ですが、クローン技術を使うものです。自分の脳とクローンの脳をBMIで接続しクラウド上で仮想的に1つの脳として見せます。またこの方法だと自分のクローンであるという必然性も特にありません。2人以上の複数人の脳を繋いで共有化する事も可能です。しかし肉体を存続させるという目的での人工受精と代理出産(人工子宮であっても)は現行の法律に抵触するものと思われます。物理世界の脳の一部は寿命と共に死を迎えますが、複数の脳全体のシステムは常に新しい肉体と入れ替わる事で存続します。3つ目の方法は2つ目のクローンや新しい身体をヒューマノイドロボットに置き換える方法です。この方法だとクローンや人工授精に伴う倫理的な問題を回避する事が出来ます。この方法では自分の生物の脳と脳型コンピュータを仮想化して共有する事になります。脳の衰えと共に脳型コンピュータの比重が大きくなっていき、最終的には全ての脳細胞が死んだ段階で100%人工脳に移行する事になります。
- いくら人工知能が発達したところでコンピュータのような人工物が人間のような意識を持つ事は何となく直感に反するのですが。
- 実のところ人工物と生命体との境界線というものは、科学的に明確には定義されていません。
生物学の教科書では自己増殖出来ないウィルスは非生命で自己増殖出来る細菌は生命であると教わります。しかし自己増殖する人工物(コンピュータウィルスなど)は幾らでも例があるので、自己増殖能だけでは生命の定義として不十分でしょう。生物を構成する細胞も熱力学の法則に従って運動する分子の集合体ですし、DNAやタンパク質を人工的に合成出来るようになった現在では人工細胞が実現する日もそれ程遠くはないでしょう。細胞をプログラミング出来るようになると、もはや生命と人工物の境界線は完全に消失してしまうかも知れません。重要な事は数学的に等価な構造を持ったもの同士は、それらを構成している物質やシステムに関係なく本質的に同一と見なせるという事です。脳型コンピュータの節で取り上げた膜電位の方程式などはまさにその最たる例です。また別の見方をすると生命を構成する物質は炭素や酸素、水素などがあり、コンピュータのプロセッサを構成する物質はシリコンや銅などです。これらの元素は原子核の中の陽子の数や周囲の電子の数こそ違いますが、基本的には共通の素粒子の組み合わせによって出来ています。素粒子の組み合わせ方が違うだけで、原子よりもずっと小さな世界における実体は同じです。従ってどのレベルで比較するのかという基準によっても生命と人工物との境界線は相対的に変化します。パソコンも人間の脳も数学的には同じチューリング機械という定義に当てはまります。そうした視点からもコンピュータと人間との厳密な区別というものは存在しないのかも知れません。
- 量子コンピュータと脳型コンピュータとにはどんな関連がありますか?
- 神経ネットワークの組み合わせ方には膨大な種類があり、その中の一部の組み合わせでしか欲しい機能を実現できません。
人工知能などの機械学習でもこうした組み合わせ最適化問題を扱っており、最適な神経配線の繋げ方を探索する事を学習と呼びます。量子コンピュータはある種の組み合わせ最適化問題を高速に解く事が出来るため、量子コンピュータの計算で弾き出した神経配線のネットワークを脳型コンピュータにダウンロードする事で学習を高速化するなどの用途が期待されます。